西区の史跡顕彰碑

史跡顕彰碑

 東エリア(西本町・阿波座・立売堀・新町)

明治小学校旧校舎跡
明治小学校跡
西区阿波座2丁目1
(NTT西日本阿波座ビル敷地内)

          沿    革
 
明治 5年 西大組第八小学校創立(阿波座)
明治11年 阿波座小学校と改称
明治 6年 西大組大九小学校創立
        (現在地 阿波座2丁目3)
明治 8年 阿波座小学校と改称
明治11年 安喜良小学校と改称
明治17年 阿波座、安喜良、両小学校を合併
        明治小学校創立(現在地)
大正15年 鉄筋新校舎落成(現在地)
昭和20年 戦災の為校区焦土となり学校閉鎖
昭和32年 旧、明治、靭、広教、3校を校区として、明治小学校 復興
昭和45年 現在地両側に新校舎落成移転
        (現在に至る)
昭和47年 旧校舎整理
         
               昭和57年4月建立


by:ハナ


百田宗治(ももたそうじ)文学碑
文学碑
立売堀1−4(新町北公園内)


百田宗治    1893〜1995年
大阪市西区出身 
詩人 児童文学者 作詞家
著作に   『1人と全体』  
        『椎の木』
童謡に 『どこかで春が』(作詞)

新町北公園内に文学碑あり

by:ミーやん

立売堀川跡
立売堀川碑
西区立売堀1−4 (花王ビルの南横)


立売堀は運河であった。
江戸時代は材木商で栄えた。
大正時代は金属、機械の問屋街です。
昭和31年に埋め立てられて、
現代に至ります。
by:ミーやん

明治橋
明治橋
西区立売堀2丁目


明治橋は、立売堀川の上流から数えて第4番目の橋として明治9年に初めて架けられ、明治に創設したのでこの橋名がつけられた。
明治橋の開通は、地域に多大な発展をもたらし「明治」の名は当時の住民の感謝と愛情をこめた象徴として親しまれ、以来、地域の連合町会や小学校の名称として、連綿と引き継がれており今もこの町に生き続けている。
by:ひまわり

薩摩堀川跡
薩摩堀川跡
西区立売堀4丁目


薩摩堀川は、寛永5年に開鑿(かいさく)され全長 833メートル、川幅 26メートル。
開鑿を請け負った薩摩屋仁兵衛にちなんでこの名がある。
昭和22年に埋め立てられたが、昭和28年3月30日 薩摩堀北公園として使用開始。
昭和46年3月1日名称変更、薩摩掘公園に改める。
by:daihon

広教小学校跡 隣接広教寺(願教寺)
広教寺跡
西区立売堀(薩摩堀公園)


昭和20年大東亜戦争終戦までここに真宗(親鸞聖人)の銅像があり、大きなイチョウの木がありましたが、戦災にあい焼けて、無くなり、あと影もありません。 いまは薩摩堀公園となっています。隣に広教尋常小学校がありました。
現在は児童相談所となっています

by:オデコ

新町九軒桜堤の跡
新町九軒桜堤の跡
西区新町1丁目(新町北公園内)


近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡」で知られた新町九軒の吉田屋はこの付近にあり西鶴も、その賑わいを、浮世草子に描いている。 有名な桜堤の夜桜は、人々の心を和ませてくれました。
現在もこの季節には、満開の夜桜の花見でにぎわっております。
by:ローズ

初世 中村鴈治郎生誕の地
中村鴈治郎の生誕の地
西区新町1−17


近代の上方歌舞伎界を代表する名優初世中村鴈治郎は、三世村翫雀の子として(1860)ここ新町にあった「扇屋」で誕生しました。
実川鴈治郎の名で13歳で初舞台を踏み、明治11年に中村鴈次郎と改名しました。
その後、歌舞伎界を代表する名優となり昭和10年2月1日75歳で世を去った。

by:ローズ

西六平和塔
西六平和塔
西区新町1丁目高速道路内


満州事変から太平洋戦争までの出征や、空襲でなくなられたこの地区の人々を慰霊するために、昭和33年地区連合会によって慰霊碑が建てられました。
特に昭和20年3月13日 大阪大空襲で300人以上の方々が亡くなりました。

西六(さいろく)とは、西区の小学校区の地区名で、立売堀、新町、西長堀の3っの町から来ています。
by:ミーやん

新町橋跡碑
新町橋跡碑
西区新町1丁目(高速道路内)


日本で最初の公認の遊郭で、今日の島原、江戸の吉原、大坂の新町が3代遊郭でした。
新町遊郭は最初は西の大門しかありませんでしたが東の大門が建てられ、その時に前の 川(西横堀川)に新町橋が架けられました。
当時はたくさんの人々がこの橋を、行き交うので市が立ちました。これが基盤となり今の心斎橋の賑わいを見ることになります。
by:ミーやん

角藤定憲(すどうさだのり)改良演劇創始之地
角藤定憲の石碑
西区新町2(新町南公園内)



明治21年12月 この付近の新町座にて角藤定憲が改良演劇と称し、壮士芝居を公演などの碑文が記されてる。
角藤定憲は明治40年1月神戸の大黒座楽屋で急死したが、たまたま昭和33年、劇団新派の関西来演をきっかけに、 川口松太郎・長谷川幸延・長谷川貞信・中村貞以・菅楯彦ら15人が発起人となり、角藤定憲の功績をたたえるため碑が建てられた。
by:ひまわり

四ツ橋の跡
四ツ橋跡
西区新町1丁目(高速道路下)


四ツ橋は大阪の人にとっては懐かしい橋で阪神高速道路下と長堀通りの交差する所を囲むように方形に架かっていた。 
東に炭屋橋、西に吉野屋橋、南に下繋橋、北に上繋橋と言う、これを合わせて四ツ橋といった。西横堀川、長堀川の埋め立てにより橋としての歴史を終え地名として残っている。
この橋を忍び整備を行い、木橋を表現し橋の欄干を床面は木製、川面は砂利を埋めた床で残されています。
by:ローズ

間長涯(はざまちょうがい)天文観測の地
間長涯の碑
大阪市西区長堀通(グリーンベルト公園内)

間長涯(1756〜1816)は冨田屋橋北詰で、十一屋という質屋を営む家に生まれ、本名間重富といい幼い頃から冨田屋橋の上で星を眺めていた。
寛政7年(1795)幕府の改暦にあたり高橋経時と共に出府し江戸浅草天文台で中岡の「暦象考成」を基に3年で「寛政暦」を完成させた、その功により、幕府直参に取り立てる話があったが辞退し帰阪その後富田屋橋に英国製の観測機を据えて好きな天文観測に没頭した。
この時橋は通行止めとなるのですが、堀江の住民で文句を言う者は一人もいなかった。碑は昭和35年大阪市によって長堀川のほとりに建てられたが長堀川の埋め立てにより北堀江2丁目に移されたが、長堀通に緑地公園ができたので再度、現在の地に移設された。
by:ヨシベー

ここに砂場ありき
砂場
西区新町2丁目(新町南公園 東南角)


 本邦麺類店発祥の地 
大阪築城史蹟・新町砂場

 天正11年(1583)9月、豊太閤秀吉公大阪築城を開始、浪速の町に、数多膨大を極めし資材蓄積場設けられる。 ここ新町には砂の類、置かれ、通称を「砂場」と呼びて、人夫、工事関係者日夜雲集す。
人集まる所、食を要す。早くも翌,天正12年、古文書「2千年袖鑒(そでかがみ)」に麺類店「いずみや・津の国屋」など開業とある。
 即ちこの地、大阪築城史蹟にして、また、本邦 麺類店発祥の地なり。

                坂田孝造 識
  
          昭和60年(1985) 3月11日
 大阪のそば店誕生400年を祝う会建立
by:ハナ

新町演舞場跡地 1922-2014
新町演舞場跡地
西区新町2丁目5-5

新町は、大阪一の花街として隆盛を誇っていました。演舞場は、大正11年(1922)に当時大阪で活躍した片岡安率いる片岡建築事務所の設計により 芸妓さんが舞を披露する場として建てられました。
昭和に入ってからは、日本出版配給株式会社の大阪支店として利用されていましたが、1945年の大阪大空襲により大きく損傷。
戦後、日本出版配給株式会社から派生した株式会社大阪屋によって、演舞場の玄関などを保存・活用し、60年以上の長きに亘り 本社屋として利用されていました。
2014年に株式会社大阪屋の本社は移転し、建物は解体されました。
跡地には、タワーマンションが建設されましたが、窓装飾の一部を再利用して碑が建立されました。 (2018年3月)
by:rokko(2021.1取材)

大阪木材市場発祥の地
大阪木材市売場発祥の碑
西区新町3丁目
(長堀通中央分離帯緑地公園内)

木材の流通形態は基本的に「市売り」と「付売り」の二つに分離される、「市売り」は木材の販売を委託された市売り業者が市場で「せり」による販売方式、「付け売り」は相対販売により山元から需要者まで直送する販売方式です。市売り市場は大阪において初めて行われたと言われています。
元和末年(1622年)の頃土佐藩の申請によって材木市場が立売堀堀川で始まり、やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると西長堀川でも木材市場が許可されることになった、土佐ばかりでなく日向、紀州、阿波、尾張など全国各地の材木が集まりしだいに川の両岸には全国各地の木材を扱う店が軒を並べるようになり西長堀橋南詰から富田橋、問屋橋、白髪橋にかけての浜側は江戸時代から昭和にいたるまで年中材木市場が開かれていた。
by:ヨシベー

大阪木材会館の跡地
大阪木材会館の跡地
西区新町3丁目6
(ジオ新町レジデンス敷地内
  長堀通沿い)

ここ白髪橋は、日本の木材市場発祥の地です。(長堀通を挟んで史跡もあります)
大阪木材会館は、昭和23年 木造2階建ての初代が完成、昭和46年 6階建てのビルに建て替え
令和元年 住之江区平林駅前に移転し、木造2階建ての新会館が完成し大阪木材業界の歴史と伝統を継承されています。
跡地には、マンションが建設されましたが、その敷地内に碑が建立されました。
by:rokko(2023.10取材)

西六(さいろく)小学校・国民学校 顕彰碑
西区新町4-4 (日新会病院前)


平成27年3月建立。
碑の場所は、西六小学校のプールがあった場所との事。

≪沿革≫
◆明治6年(1873年)5月 西大組第13番小学校として開校
◆明治17年(1884年)11月 近隣の3校が合併し、西六小学校となる。「西六」の名称は、「西区で六番目の行政区域」に由来する。
◆昭和20年(1945年)3月13日の、大阪大空襲により校舎は焼失。
◆昭和21年(1946年)3月 「国民学校休校並児童収容替」措置により廃校となる。

碑には、沿革・歴代校長名、背面には顕彰碑建立の経緯・趣意が記されています。
by:rokko

道標ー(西区役所前)
道標
西区新町4丁目-5(西区役所南西角)


江戸時代から伝わる花崗岩製のこの道標は、四方に東西南北と御城・寺嶋(松島の旧称)・ 前垂島(幸町西部の旧称)などの地名を示し、直進と左右への道案内が丁寧に刻み込まれている。
この道標は古くから現存地に建っていたのではなく、古地図からみて恐らく長堀川北岸の鰹座橋詰あたりに建っていたと想像される。
建立年代は幕末期と考えられている。
by:daihon