西区の史跡顕彰碑

史跡顕彰碑

 南エリア(北堀江・南堀江・千代埼)

伏屋素狄顕彰碑
伏屋素狄顕彰碑
西区北堀江3-7(和光寺内)


伏屋素狄(ふせやそてき)は、腎臓は尿を濾す器官であることを初めて発見した。「和蘭医話」二冊を著した、実験生理の祖である。医家。
和光寺の境内に顕彰碑がある。
by:うめちゃん

和光寺
和光寺
西区北堀江3-7



元禄11年(1693)堀江新地開発の時、智善上人が建立した境内の池から善光寺(長野)本尊といわれる阿弥陀如来が出現した事から、江戸時代から人々に親しまれている。
by:kf

戦没者忠魂碑
忠魂碑
西区北堀江3−7 (和光寺内)


和光寺の東門の横に『忠魂碑』があります。
明治37、38年の日露戦争で戦死された人だけではなくなく参加した兵士の名前も書いています。戦没者を郷土の誇りとして碑を建てました。
この地域で24名の戦死者を出しました。

忠魂碑とは 主に日露戦争の参加者が忠義の為に死んだ人の魂を記念に残す為に建てた碑です。
by.ミーやん

皇太子殿下御降誕記念碑
皇太子殿下御降誕記念碑
西区北堀江3-7-27(和光寺 東門横)


和光寺の副住職 別府浄照さんによれば
碑文の「皇太子殿下」というのは、今上天皇(きんじょうてんのう)現 平成天皇のこと

皇太子殿下御降誕(昭和8年)という慶事を記念して、「堀江青年団第四分団」が建立した国旗掲揚塔です

現在も国旗掲揚柱は現役です。
和光寺にて活動しているボーイスカウトが、国旗を掲揚するのにも使用しています
by:rokko

大東亜戦争英霊碑
大東亜戦争英霊碑
西区北堀江3-7-27(和光寺 東門横)


この碑は、第二次世界大戦(昭和18年開戦〜20年終戦)で亡くなった尊い命の魂を悼んで、昭和36年11月に建立されました。

英霊(えいれい)とは、すぐれた働きをして死亡した人の死霊に対して敬意を込めて使う言葉で、「英」は「英雄」の“英”を表しています。

左側には、英霊碑の建立にあたった発起人名が記された石碑が建っています。
by:rokko

指西(しせい)の松碑
指西(しせい)の松碑
西区北堀江3-7-27(和光寺 東門横)


和光寺の副住職 別府浄照さんによれば

碑文の「指西」とは、西方浄土(さいほうじょうど)に向かってという意味で、昭和20年までは石碑を囲んで松が植っていたそうです。
松は戦争で焼失し、現在はソテツが植っています。

石碑は、幸橋(さいわいばし)淡熊(だんくま)こと銅傳 佐兵衛(どうでん さへい)の顕彰碑。
淡熊一家は、かつて大阪市に存在した博徒系組織。銅傳 佐兵衛は、その初代会長で有名な侠客でした。 明治41年 建立
by:rokko

宝井其角(きかく)のあだなり句碑
宝井其角(きかく)のあだなり句碑
西区北堀江3-7-27
(和光寺内 あみだ池のほとり)



あみだ池のほとりには、句碑が数個並んでいます

この碑に彫られている句は
「仇(あだ)なりと花に五戒のさくらかな」です
意味は、花が咲けば、心ここにあらずで、家を空けて花見に行く。いけば酒を呑んで不飲酒、よって大言壮語すれば不妄語、 枝を手折って家に持ち帰ればこれは不偸盗に反する。所詮五戒を守るなどとはできっこないのだ。

作者の宝井其角(1661年〜1705年)は、江戸前・中期の俳人。松尾芭蕉の一番弟子で、元禄7年大坂で芭蕉の死に立ち合いました。
by:rokko

狂歌(きょうか)碑
狂歌碑
西区北堀江3-2-7
(和光寺内 あみだ池のほとり)

池のほとりには、句が刻まれた碑が数個あります。この碑はその内の一つです。
狂歌(きょうか)とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、 五・七・五・七・七の音で 構成した諧謔形式の短歌(和歌)のことで、江戸中期以後に流行しました。
この碑は、明治31年10月に建立されましたが、戦火を免れて今も健在です。

石には、5首の狂歌が刻まれています。
和光寺の副住職 別府浄照さんによれば

●あそびもし、○もしくらひもし 極楽で もうけつかひの きのこりはなし (桐丸)
●花ならで 御笑ひ○ 言(こと)のはを のこしてきゆる つゆの玉麻呂 (玉丸)
●すみなれし ここも極楽浄土なり 後世を願ふ なむあみだ池(七宝丸)
●念佛をとなふることのつきてのち あみだが池に のこすいしぶみ (むら丸)
●みのかさも つえもつきせぬ 天の下 ふり行 死での旅立 (花才丸)
 ※ 〇は、判読不可の文字

by:rokko

句 碑
句碑
西区北堀江3-7-27
(和光寺内 あみだ池のほとり)

和光寺の副住職 別府浄照さんによれば
この碑に彫られている句は、
「花にこころさりて うしろあゆみかな」で、作者は不明です。

池のほとりには、他にも句碑が数個建っていますが、字は判読できませんでした。
by:rokko

水防碑
水防碑
西区北堀江4−1(西長堀公園内)


西区は、これまで台風に伴う高潮により幾多の水害に見舞われたが中でも(昭和9年)の室戸台風(25年)ジェーン台風、また(36年)には第2室戸台風により多くの人命と財産が失われました。近年こうした大水害は、ほとんど見られなくなった現代においても、なお一層人々が、水防意識を高め不断の努力で災害を防除することを念願してここ長堀川跡にこの碑を建立しています。
     昭和53年 秋 大阪市
by;ローズ

木村兼葭堂(けんかどう)邸跡
兼葭堂史跡
西区北堀江4-3
(大阪市立中央図書館東南隅)

木村兼葭堂は、西区北堀江で造り酒屋を営んだ裕福な町人。通称、坪井屋吉右衛門(1736〜1802)と言い巽斉と号しました。
自邸の庭に井戸を掘った時に、土中から芦の根が出てきて、これこそ古来、難波江の芦のかりねの一夜ゆえ身をつくしてや恋わたるべき(皇嘉門院別当,千載集)古歌によまれている芦だと喜び自室を兼は(よし)葭(あし)兼葭堂と名付けた。
悠々然とした人柄で家業の酒造りを他人に任せて、自分は意の向くまま高雅な文人生活を楽しんだ。物産、草本、(博物学)を得意とし、絵画書、詩、煎茶等他方面に渡り「山海名産図会」をはじめ多くの著書を出版した。
これらの研究のために集めた書籍、古書画、金石、標本類は多く、コレクター兼葭堂の名前は中国、朝鮮にまで知られるほどだった。
兼葭堂こそ自由闊達であった当時の大阪文化的雰囲気を身に付けた大阪町人学者だったといえる。
享和2(1802)年67才で没し、天王寺区餌差町大応寺に葬られ、西区北堀江4丁目の大阪市立中央図書館東南隅に『木村兼葭堂邸跡』の碑がある。
  (大阪の歴史、岡本良一著より)
by:ton

西長堀川と鰹座の跡
西長堀川と鰹座の跡
西区北堀江4−1 (西長堀公園内)


 寛永二年(1625)閉削された長堀川は西横堀川以西を西長堀川とよばれた。
 東から十二橋が架けられていたが、中でも鰹座橋一帯は土佐藩蔵屋敷の広大な敷地で土佐の産物は主としてこの辺りに陸揚げされ、材木のほかにも土佐の名産鰹節を取引する鰹座があった。  
by:monchan

岩崎邸舊址
岩崎邸舊址
西区北堀江4−9(土佐稲荷神社内)


江戸時代このあたり一帯は土佐藩邸でしたが、明治になり(三菱)の創業者岩崎弥太郎が引き継ぎ以降岩崎家の土地としてこの一画に居を構えた。明治期に現在の三菱財閥の基盤を創った人物岩崎弥太郎(高知県出身)はよく知られているが、キーパーマンは弟の弥之助だった。
 明治十八年弥太郎没後は財閥の事業内容を再編、その後三菱の経営は弥太郎の嫡男久弥に譲り、日銀総裁の座に就いた後も政界の黒幕的存在として活躍した。
 その後、土地の一部は大阪市に譲渡され、昭和十二年現在の土佐稲荷神社の東側に、大阪市立高等西華女学校の新校舎が完成し、同年同校保護者会が、十一月に石碑を敷地内に建立しました。
 時を経て校舎跡地は集合住宅となり、平成二十年に再開発のために平成二十一年五月、この石碑を土佐稲荷神社内の境内に移設しました。
by:ton

其角の句碑
其角の碑
西区北堀江4−9−7
 土佐稲荷神社(境内)本殿の西側

 其角(きかく)は、江戸時代の俳人です。
昔の人は、よく歩いて句の題材を探し俳人は、さかんに旅をしたようです。
その訳は仲間が集まり連句(57577)を交替次々吟じて行く。
旅人の代表が松尾芭蕉で、「奥の細道」は有名ですが旅の途中大阪で亡くなったようです。
芭蕉の弟子の一人が宝井其角で、三回程長旅を、連れもなく一人旅で東海道を下り京都さらに吉野山にも足を延ばし大阪でも花見酒を楽しんだ(明星や桜さざめぬ山かつら)の俳句が刻まれている。
桜の名所で知られる土佐稲荷で詠んだのではないが、名所の同社に句碑が建られたのであろう。
by:ローズ

平和を祈る記念像
平和を祈る
西区北堀江4-9-7
(土佐稲荷神社 境内)


大阪は昭和二十年三月十三日 深夜から十四日未明にかけてアメリカ空軍B29に、攻撃を受け都心部は廃墟、区内の住宅80%が焼失し亡くなった人は766人と悲惨であった。
6月7日の空襲で焼跡に爆弾が投下され、道路は寸断された中終戦を迎えた。
再出発を目指し困難であった事と戦後復興のため、土地区画整理が実施された。
それにもかかわらず辛苦の末復帰してきた住民たちは、御霊をここに迎え、国々の争いはこれが終わりとし、永劫の平和を祈り昭和32年に真先に 区内にこの記念像を建立した。
昭和32年   大阪市

by:ローズ

大阪電気(株) 西道頓堀電燈発電所跡地
西道頓堀発電所跡地の碑
西区南堀江1丁目26−15


西道頓堀電燈発電所跡地の碑(金属板)
現在の関西電力の日本発の交流発電が開始された場所。
西道頓堀橋北東角地に、1889年大阪電燈会社の発電所が完成し、ここが変電所となる。
1913(大正2年)隣に宇治川電気株式会社→堀江赤レンガ倉庫→解体→撤去されて、今 賑わう堀江の一角に河畔に佇む関電の赤レンガ倉庫が、超高層マンションへと変貌を遂げる。
by:おみよ

勧進相撲興行の地
南堀江相撲発祥の地
西区南堀江2−8
南堀江公園(堀中グランド内)


勧進相撲は、風紀を乱すという理由で江戸幕府により禁止されたが、大阪では元禄5年南堀江のこの地で興行されたのが最初と伝えられる。
江戸(春、冬)京都(夏)大阪(秋]四季で勧進相撲が定例化しました。
by:ローズ

大阪市 高臺(たかきや)小学校跡
高台小学校跡
西区南堀江3−5(堀江中学南東角)


明治5年西大組第十八区小学校(元紀州候邸跡)12年に高臺(たかきや)小学校と改称され、20年に西区立 高臺高等尋常小学校と改称
27年に校舎の増築をしたが大正7年に全校舎類焼のため焼失仮設校舎で授業新校舎の落成と大阪市高臺尋常高等小学校に改称、 昭和3年になり学区が廃止され男子は日吉小学校へ、日吉小学校女子は高臺小学校へ収容、20年の大阪大空襲で焼失しその後日吉小学校に併合、 20年3月13日夜の大空襲で校区内の多数の方が亡くなり、これらの方々の御霊、安らかに眠られんことを祈念いたしまして高臺小学校同窓生有志で健立。

by:ローズ

藤井藍田(ふじいらいでん) 玉生堂跡
玉生堂史跡
西区南堀江3丁目1  (現在の高台橋公園)


藤井藍田は、1816年(文化13年)大阪に生まれる。後に町人学者となり活躍する。
安政4年に、私塾(玉生堂)を西区南堀江3丁目に開設して長州系志士を中心に交流を持つ。 吉田松陰他、志士と交際して新鮮組に捕えられて、投獄された時に藍田が詩、画を、贈り激励したと云う逸話がある。
by:ton

堀江川跡
堀江川
西区南堀江1-13(堀江公園内)


元禄11年川村瑞賢により、西横堀川と木津川を結ぶ堀江川が開削されこれにより、 堀江新地が開発され南堀江では大阪相撲、北堀江では浄璃璃等各種産業が起きた。 
堀江川では、物資や運搬だけでなく堀江から文化の発信の通り道となった。
昭和35年に埋め立てられ役割りを終えた。
その堀江川の跡地である。
by:ローズ

大阪市電創業の地
大阪市電創業の地
西区千代崎2丁目8−10


明治36年9月に開業した大阪市電の第1期線築港線は、西区九条町(花園橋西詰)から築港埠頭までの約5キロ間で、このあたりに花園橋停留所がありました。
           平成元年9月 大阪市建立

by:外来種

大阪ガス 発祥の地
石碑・ガス燈・メモリアルプレート
西区千代崎3丁目南2−37
大阪ドーム入口に設置(平成9年3月18日)

大阪ドームが建設された大阪ドームシティは、明治38年10月に都市ガスを大阪市内に初めて供給した、大阪ガス岩崎町工場の跡地であり、そこが大阪ガス発祥の地であります。
大阪ドーム入口の一画に大きな「大阪ガス発祥の地」の石碑があります。
この石は大阪茨木市北部豊能郡能勢町から産出された「能勢石」と呼ばれ花崗岩で重さは8トンです。
石碑の横には「ガス燈」があります。
明治38年発祥当時のデザインを復刻したものと、最新式のものと2基のガス燈を設置し、創業当時の時代とこれからの新しい時代を表現しています。
床面には発祥の地を記念する「メモリアルプレート」を埋め込んであります。プレートの中央部には大阪ガスの社花であるスズランを配し、外周には「OSAKA. GAS Since1905」 OSAKA DOMU CITY」と記しています。
by:ヨシベー

九条と朝鮮通信使の碑
朝鮮通信使の碑
西区千代崎1−1(松島公園内)
松島公園前バス停の前


朝鮮通信使とは、江戸時代、朝鮮から日本へ将軍が代替わりした時の友好親善の為来日していた人々である
朝鮮通信使は大阪の川口から陸路で江戸に旅をしていた。
by:さくら