西区の史跡顕彰碑

史跡顕彰碑

 西エリア(川口・本田・境川・九条・九条南・安治川)

川口居留地跡
川口居留地跡
西区川口1丁目5−19 (本田小学校北詰)


市制施行70周年記念。
昭和36年3月 大阪市建立
安政の条約にもとづいて川口町一帯に外国人居留地が設けられ、やがて大阪開港となって大阪の文明開化に貢献した。
by:外来種

カッフエー・キサラギ跡
大阪市西区川口1-5(本田小学校北東角)


日本で最初のカフェ?明治以前のいわゆる「茶店」ではない、珈琲をメインで提供した最初の喫茶店は、1888年(明治21年)4月に東京で開業した(可否茶館」なのだそうです。
日本で最初のカフェだと言われているのが「カッフェ・キサラギ」。
お店は居留地らしい洋風2階建てのモダンな外観であった。ヨーロッパの本物のカフェにはほど遠かったにも関わらず、文人や画家、芸能人など、西洋文化に憧れる多くの人で賑わっていたそうです。
by:ひまわり

飯田直好家邸の跡
飯田直好家邸の碑があった場所
西区川口1−6
本田小学校南隣・本田変電所北西角


飯田直好(4代)は安治川の治水に巨額の私費を投じて尽力をつくした。
海運業者で幕府の御用達差配として登用された写真がありませんが・・・・・。
本田小学校の隣と本田変電所の建てられている跡に、飯田家跡の説明板と碑が建てられていたらしいです。

by:さくら

旧町名継承碑「本田1〜3番町」
旧町名継承碑
西区川口1ー5−19


住居表示の変更等により長年にわたり親しまれた町名が消滅した為、後世に引き継がれるように旧町名継承碑が設置されました。
平成8年12月 西区役所建立

「本田」という町名は、新田に対する元来の田地の意味を具えた地域であることに由来するそうです。
当町は、明治初頭は、大阪三郷北組の梅本町の一部でしたが、明治時代の市制施行にともない大阪市西区に編入され「本田1〜3番町」となる。
月日がすぎ、昭和52年の住居表示の実施にともない、「川口1〜3丁目」「本田1丁目」の一部となった。
by:ひまわり

木津川橋の碑
木津川橋
西区川口1


木津川橋の歴史。概要
大阪市西区川口1丁目〜西区江之子島2丁目間に架かる。
最初の木津川橋は1868年木製の橋として架けられた。1876年に橋脚など部分的に鉄製となり、日本初の歩・車分離橋となったが、1885年の洪水で流失、1888年には輸入鉄材を使用した鉄橋として復旧した。
その後1913年には大阪市電の開通に伴い3径間アーチ橋に架け替えられた。
1953年に国道172号線の一部となる。
現在の橋は1966年に高潮対策事業の一環として架け替えられた。


by:daihon

安治川橋の碑
安治川ばしの碑
西区川口2丁目


江戸時代の初期までの淀川川口部には九条島が流れを遮る位置にあり洪水がたびたび起こり、 また土地の堆積により船運にも不便をきたすことが多かった。
このため貞享元年(1684)幕府の命により、川村瑞賢(かわむら ずいけん)が水路を開削し、安治川と名付けた。
その後、周辺の富島や古川の新地開発が進められ、元禄11年(1698)に完成した。
安治川橋は新地開発に伴い初めて架設された。
by:ひまわり

外人雑居地の跡
西区川口3丁目5


川口には居留地とは別に雑居地が認められ、梅本町を中心に日本人と共に外人が移住した。ここには明治2年4月発行の「居留地外、雑居地、地券書」が残されている。雑居地の外国人はほとんど中国人で、昭和20年の戦災にあうまでは多数の中国人が住んでいた。中華料理の発祥の地でもある。中国人の経営する理髪店も多く、特に耳掃除が器用でわざわざ遠方から来る客もあった。この一帯は川口居留地外国人の影響により永く居住した。中国人の文化の影響を多く受けたところである。現在は淋しく写真の通りの木札で跡地を説明している。(木札の場所は梅本町とは少し遠く離れている)
同所には富島天主堂跡地の説明石碑がある。
by:ヨシベー

大阪開港の地(川口運上所跡)
大阪電信発祥の地(川口電信局跡)
川口運上所跡と大阪電信発祥の地
西区川口二丁目の9

慶応3年(1876年)この地に大阪税関の前身である「川口運上所」が設置され、外国事務、税関事務を取り扱っていた、今も隣接に大阪税関富島出張所がある。
明治3年(1870年)に川口運上所内に川口電信局が設置され、川口運上所から神戸まで電信線が架設開通しました。これが日本最初の電信線であり大阪電信発祥の地であります。

後に明治天皇がこの地に立ち寄られたので「明治天皇聖躅」の石碑が大正14年に建立されている。
by:ヨシベー

大坂船手会所跡
大坂船手跡会所石碑
西区川口1-2


建築年は、1620年頃〜
 大坂船手は、大阪湾から、木津川、淀川への船舶の出入りを管理する、大阪湾に停泊している船を掌握することを職務とする江戸幕府の役職で、1620年に設置された。その中心的施設が、この地に置かれた船手会所である。
配下の施設として、船の出入りの管理を実際に行う、船番所が3箇所に設置された。
by:ひまわり

富島天主堂跡
富島天主堂の石碑
西区川口3丁目-5
 (聖マリア幼稚園北東角)


明治12年(1879年)頃、フランス副領事の請願にもとずき、ここ富島に本格的な赤レンガ造りゴシック様式の建物で「カトリック礼拝堂」をこの地に建てました。
今はありませんが大阪府庁江の子島庁舎と共に当時は洋風建築の代表的建造物でした。
今は聖マリア教会と聖マリア幼稚園になっています。
またこの辺はかっては外国人雑居地であった、多くの中国人が中華料理店や理髪店を開いていました。
by:ヨシベー

河村瑞賢(かわむらずいけん)紀功碑
川村瑞賢紀功碑
西区川口4丁目-8


川村瑞賢(かわむらずいけん)1617年ー1699年は、江戸時代の人物、日本の実業家、日本の近世の海事関係者です。
淀川、安治川などの治水工事を完成し、死の前年、旗本に取りたてられた、木材商になり、莫大な財産を作った。
1684年淀川河口、治水工事を任されるこになって、安治川を開くほか、全国各地で治水、灌漑鉱山採掘、築港、開墾などで、事業を実施。
現在国津橋に立ってますが、橋はありません。今はマンションの隣にあります。
by:ひまわり
旧町名継承碑 「古川町」 
古川町継承碑
西区川口4丁目


当地は明治初頭、大阪三郷天満組の古川一〜二丁目の各一部であったが同五年三月古川町の一部となった。
町名は、貞亨1684年に九条島を開削して安治川を開通された。

by:ひまわり
松島橋の碑(梅本橋の碑)
松島橋の碑
西区本田1丁目-4
(松島公園の中・少年広場内)


公園の中のなので遊びながら見学できる。
プールがそばにあります。


外国人が往来して大阪における文明開化の
発祥地となっている。
by:さくら

松島橋
松島橋
西区本田1丁目4
(松島少年広場、松島橋西詰)


当地は、木津川と尻無川(埋立)が分岐した所で、かって樹齢300年と云われる名松があったことにより「松島」の地名がつけられたものである。
明治に入り川口地区に外国人居留地が設けられたのを機会に、木津川の渡しを廃止し松島橋が架けられたのが明治2年であった。
橋長は69.4m6mの木橋で、高い帆船も通すため反りの大きい橋であったことが長谷川貞信の「浪華百景」の中で描かれている。
しかしこの橋は明治18年の淀川大洪水の時流失したことにより、橋脚を鉄抗にした木桁橋が架けられた。
現在の橋は、昭和5年に都市計画事業により架けられたものである。
by:ヨシベー

旧町名継承碑 「梅本町」
旧町名継承碑 梅本町
西区本田一丁目


住居表示の変更等により長年にわたり親しまれた町名が消滅した為、後世に引き継がれるように旧町名継承碑が設置されました。
平成8年12月 西区役所建立

町名は、本来の城であった竹林寺境内に「難波津香の梅」と呼ばれた、名木が存在していたことに由来するそうです。
by:ひまわり

龍渓禅師水定遺跡
龍渓禅師水定遺跡
西区本田3−4−18


大阪市史跡・九島禅院
当院の創建は寛永元年(1624)と言われる。
寛文十年(1670)8月23日、当地に大暴風雨来襲時に、開山龍渓禅師は、従容として座禅のまま水定死された。 郷土の人は、禅師を「九条の人柱」と言われた。龍渓禅師は後水尾法皇が師僧と仰がれた徳川時代の高僧である。
寺内に龍渓禅師の墓・飯田直好他郷土の先覚者の墓がある
                
by:外来種

黄檗宗・霊亀山  九島禅院
九島禅院
西区本田3−4−18


九島院は霊亀山と号し、黄檗宗(禅宗の一派)に属し聖観世音菩薩を本尊とする。当山の草創は詳らかでないが、寛永の頃、幕吏香西哲雲と士豪池山一吉が(九条島)を開発「興禅庵」と称した。小庵を新田鎮護と五穀豊穣を祈念して、寛文三年(1663)に拙道和尚を迎え〔九島庵」として,祈祷道場にした。
拙道は師の龍渓禅師を開山に仰いで開くが寛文十年(1670)八月十五日開堂法要の折、大亀花を背負って祝福に来たという故事により霊亀山という。同年八月弐拾三日当地に大暴風雨と大津波がが来襲、十数人の僧が水死、禅師はその時座禅のまま従容として水定死された。
     以下省略               
by:外来種

暴風水害記念碑
暴風水害記念碑
西区九条2丁目6−2(九条東小学校)


昭和9年9月21日早堯、室戸岬を掠めたる風速60米突の猛台風は三米突に近き高潮を伴い其の日午88時我我大阪市を襲ひ実に死者990名重軽傷者1万6908名に上がれり。
        
             以下略
                 昭和13年3月
by:外来種

八紘一宇(はっこういちう)
八紘一宇の碑
西区九条3−18−1


八紘一宇の碑は、正確には『国旗掲揚柱の基部』です。
「八紘一宇」とは日本軍が全世界を侵略し天皇を頂点とした世界を造るための標語として使われた言葉です。
二本の石柱の間に木の「国旗掲揚柱」がありました。木は石柱の間にあります。
大きい石柱の裏面は「創立15周年記念」「昭和15年1月建立」小さな石柱は「昭和9月21日関西風水害浸水々水位標」と「室戸台風」彫られています。
byひまわり

古川跡碑
古川跡碑
西区安治川1丁目2


安治川1丁目、市バス「国津橋」下車すぐの所に建っています。
古川は、安治川開削前に流れていた水路の残存部で川口町の住友倉庫辺りから安治川と分岐し、 堂島町、古川町の間を流れていたが、大阪府防潮堤工事に伴い、昭和27年11月、この地点から東、安治川に古川を埋め立てられています。
by:ひまわり

大阪市電の碑
二階付電車9号
西区九条南1丁目12
大阪市交通局本局横の植え込みに建つ

大阪の市電が消えて42年の歳月がたちます。大阪市交通局本局新築を記念し、記念碑が建てられました。
1903年(明治36年)市電開通当時の花園橋付近(現在の九条新道)を通る、2階付き電車9号の絵葉書を陶板製に複写した記念碑です。
市電は今でも緑木車両管理事務所には市電6輌(二階付電車5号。11型30号車。501型528号車。散水電車21型25号車。1601型。1644号車。3001型3050号車)は保存されていますが陶板製の二階付電車9号は珍しいとのことです。
by:ヨシベー


安治川トンネル
安治川トンネル
西区安治川1丁目-2


元々は淀川の下流です。1684年に幕府の命令で川村瑞賢が水路を開削、安治川と命名。堂島川と土佐堀川合流地点です。現在は、阪神なんば線の鉄橋近くにあり安治川をくぐる地下トンネルになってます。
西九条(此花区・JRや阪神西九条がある)と九条(西区)を行き交う、交通便です。
  1944(昭和19)年に造られ、以前は自動車用のエレーベータもありましたが、1977(昭和52)年に自動車用は閉鎖されました。
九条側入り口には、「源平衛(げんぺい)橋」という名の交差点があります。
by:ひまわり