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西区土佐堀 2−4 三井倉庫東南角
現在の大阪市西区土佐堀あたりは、かつて諸藩の蔵屋敷が集中していた地区です。
蔵屋敷というのは、その名の通り米やその他の物品を貯蔵していた所で、物流の中心として機能していたそうです。
その為、大阪は”天下の台所”と呼ばれて賑わいました。 |
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by:万ちゃん |
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西区土佐堀 2−4 西北角
上等裁判所は「明治5年8月司法省管制」による臨時・司法・出張・府県・区の五種の裁判所のうち、司法裁判所を改称したものである。
明治8年5月、大阪・東京・長崎・福島の4箇所に設置される事になり、大阪上等裁判所は7月に旧金沢邸に開庁したが、翌9年4月に土佐堀へ移動した。 |
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by:万ちゃん |
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西区土佐堀3丁目5
関西出身の小説家 宮本輝が1977年第13回太宰治賞を受賞した小説「泥の河」の舞台となった安治川その辺に記念文学碑が建つ。
文学碑を見ていると今でも、堂島川と土佐堀川が合流し安治川となって大阪湾に注ぐ大川であるまたその川に大きく昭和橋、端建蔵橋に船津橋が架かり当時のままであるが小説に出てくる、市電、三輪自動車、馬車、河川に浮かぶポンポン船それに曳かれる木船、舞台の中心になる廓船また食堂めし屋の面影は無いまたそれらを知る人も少ないと思う、碑を見ながら当時の大阪を考えるのも現代の指針になる文学碑である。
平成23年 6月建立 |
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by:ヨシベー |
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西区江戸堀1丁目10
碑文の紹介
「日本外史」の著者として有名な頼山陽は、広島藩の儒学者であった父の頼春が大阪の儒学者飯岡義斉の二女静子と結婚し、
江戸堀のこの付近に家塾「青山社」を開いて弟子の教育をしている時、安永9年12月27日(1780年)、この地で生まれた。 |
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by:daihon |
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西区江戸堀1丁目 〜北区中之島2丁目に架かる
江戸時代、肥後橋北詰の中の島に肥後藩の蔵屋敷があったことからこの付近は「肥後島町」と呼ばれていました。
元禄時代になって肥後藩の蔵屋敷は中之島西部の越中橋北詰へ移転しましたが、橋名と地名はそのまま残りました。
現在の橋は、1966年(昭和41年)に高潮対策事業と大阪市営地下鉄四ツ橋線の工事に伴って架けられたものです。 |
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by:daihon |
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西区江戸堀1丁目13−10
地下鉄四ツ橋線の肥後橋駅前のリーガ中之島イン南側に隣接する「住友クラブ」の建物の南側に、人物のレリーフの付いた立派な石碑が建っている。
≪碑文≫
梅花女学校発祥の地
明治11年1月この地で大阪で初めての府知事
認可による梅花女学校が創立者 沢山保羅によって始められた。
創立120年を記念してこの碑を建てる。
平成9年10月
学校法人 梅花学園 |
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by:daihon |
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西区江戸堀1丁目-21(西船場小学校内)
碑文の紹介
東江戸堀のこの付近には江戸時代に、頼山陽、篠崎三島、同小竹、後藤松陰、並河寒泉らの多くの有名な学者や文人らが生まれ、
また寄寓して活躍していた。
まことに誇るべき文化の地であった。
その偉績を讃えこの地に碑が建てられたものである。
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by:daihon
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西区江戸堀1-4-23 (撞木橋ビル1F)
阪神高速、土佐堀ランプ出口を少し南下したところにあります。
江戸時代初期に江戸堀川にかかっていました |
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by:ハナ |
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西区江戸堀 2−6
大村益次郎は弘化3年(1846)緒方洪庵の適塾に学び、のち塾長時代に江戸堀に居住した。
幕末期の長州藩(現・山口県)の医師・西洋学者・兵学者で、日本の近代的軍制に尽力し、明治2年兵部大輔に任ぜられたとき、
鎮台建設地・兵学校敷地などを検分し天保山で海軍根拠地の位置を選定したことは有名です。
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by:万ちゃん |
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西区江戸堀2−7
香川県生まれの宮武外骨は、1887年に東京で発行している『頓智協会雑誌』に明治憲法を『大日本頓智研法』とした虚画を載せたことで、禁固3年に処せられている。その反骨精神は市民に大いに受けたようである。
明治の中頃、江戸堀2丁目の今の花乃井中学校(元江戸堀小学校)の向かいに住んでいたそうです。 |
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by:万ちゃん |
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西区江戸堀2−8 (花乃井中学校内)
花乃井中学校の校庭は江戸時代、石見津和野藩があったところで、屋敷内の井戸から湧き出る水は大阪では珍しく良質の飲料水をたたえていて、浪速三大名水の一つと言われ、慶応4年(1868)明治天皇が大阪に行幸されたとき、この井戸水を用水に供し『花乃井』の名を与えられた。
中学校の名は、その『花乃井』をとったものである。
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by:万ちゃん |
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西区江戸堀1−1
(土佐堀通り沿い南側 肥後橋バス停前)
江戸堀ー西横堀川から分流し、木津川に合流する江戸堀川が流れていたが1955年に埋め立てられた
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by:ハナ |
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西区江戸堀1−4
筋違橋(すじかいばし)は、高麗橋筋から江戸堀1丁目にかけて筋違いにかけられていたためその名がつけられた様である
江戸時代初期には 江戸堀川に架かっていた撞木橋(しゅもくばし)と共にT字形をした橋がかけられていたという話も伝わっているが 明暦3
年(1657)の古地図にはすでに二橋になっておりT字形の橋は ごく限られた時期しか存在しなかったと考えられる
この碑の左にある親柱は 昭和3年に筋違橋が架けられた時のものである 昭和39年西横堀川の埋め立てによって橋は消えたが 筋違いは今も筋違いである
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by:ハナ |
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西区京町掘1丁目2
(四ツ橋筋京町掘1丁目交差点を少し東へ)
京町掘川は、元和3年(1617)京都伏見京町から移住してきた町人らによって掘られた川で、西横堀川から分流し、長さ1,080米、幅約30米あり、百間堀川に通じ、物資の運搬に利用されたが、 昭和36年(1961年)に防潮堤工事などのため、埋めたてられた。
京盛会復興 30周年記念建立
京町掘第一振興町会
昭和55年4月
題字 大阪市長 大島靖揮毫
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by:ハナ |
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西区京町堀2−3
関西法律学校は、明治19年当時の控訴院長であった小島惟謙(のち大審院院長)らの賛成を得て、明治義塾旧監事、吉田一士・法律学士鶴見主義、同・小倉久らにより、この地の元、願宗寺内に設立された。
現在の関西大学の前身であるそうです。 |
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by:万ちゃん |
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西区江戸堀2丁目
花乃井公園(旧 江戸堀中公園)の中
中天游は江戸時代に大阪で活躍した医師・蘭学者です。天游は別名で、本名は環(たまき)といい、耕助、融とも名のりました。天明3年(1783)に丹後に生まれ、文化2年(1805)に江戸に出て、大槻玄沢(おおつきげんたく)、稲村三泊(いなむらさんぱく)に蘭学を学び、文化6年には京都で、海上隋?(うなかみずいおう)の塾に入って蘭学を学びました。
大阪にやって来たのは文化14年ごろで、はじめは靭本町、次に江戸堀で開業しました。 その後、当時は坂本町とよばれたこのあたりに移り、天保6年(1835)に亡くなるまで住んでいました。
著述や翻訳も多く、中でも「視学一歩」という本は、眼のしくみについて書いた日本で最初のものです。医者の仕事は妻のさだにまかせ天游は思々斎塾という学塾を開き、いろいろな学問を広めました。
弟子の中には幕末に活躍した有名な医師の緒方洪庵(おがたこうあん)がいます。
中天游の墓は、北区の天満寺町 龍海寺 にあります
市制施700周年記念
昭和36年3月 大阪市建立 |
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by:ハナ:
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西区靭本町1−11
大正13年日進生命ビル4階に
小出楢重、黒田重太郎、国枝金三、鍋井克之らが中心となり、大阪の洋画壇に新風を起こす。
昭和6年に中ノ島、のち 昭和19年に閉鎖されました。
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by:ミーやん |
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西区靭本町1−20(なにわ筋道路内)
両橋は、寛永元年 靭の塩干商人が荷揚げの為に開削した。
海部堀川に架かっていた門樋橋は当初は水門であったが、昭和26年
海部堀川の埋め立てにより、姿を消しました
今の位置では、ナニワ筋の道路の敷地内です。
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by:ミーやん |
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西区靭本町1丁目 (靭パークサイドコーポ内)
明治6年5月開校の西大組第6番小学校は、のち靭東小学校と改称
同11年3月、靭西小学校(第7番小学校)と合併して、靭小学校として発足した。
爾後(じご)、高等科の併設、校地の拡張、校舎の増改築など幾多の変遷をへて、昭和17年3月校区の統廃合により隣接西船場校下に編入され廃校となる。
校舎はその後、靭商業学校、同家政女学校等種々の教育施設に転用されていたが、昭和49年6月建物の老朽化の為、撤去解体されるに至る
昭和54年11月
靭小学校同窓会建立 |
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by:ハナ |
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西区靱本町2-1(靱公園西園 なにわ筋側)
鰹節、干鰯などの干魚を商う海産物市場で、豊臣の時代には海産物の市場はひとつで、今の北浜のあたりにありましたが、江戸時代のはじめ、元和4年(1618)には、生魚と干物などを扱う市場に分かれて、生魚の市場が本町のあたりに移りました。
元和 8年(1622)には、干物などを扱う市場も、この靱の地に移ってきました。
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by:ハナ
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西区靭本町2-1 (靭公園西園)
靭公園のこの付近一帯は、江戸時代以来、塩干魚、鰹節などの海産物の市場として靭の中心をなしていました。
これらの商人が荷揚げの便をよくするために、寛永元年(1624)海部堀川(かいふほりかわ)を開削し、阿波堀川とこの川をつなぐ永代堀の屈折点を永代浜(えいたいはま)と称し、海産物の荷揚場として賑わいました。
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by:ハナ |
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西区靭本町一丁目(靭公園東園)
梶井基次郎(かじい もとじろう)は、1901年(明治34)大阪市西区に生まれました。
短い自らの生命の輝きを洗練された詩的な文章で「檸檬(れもん)」以下の珠玉の短編を書き残しました。
銘盤には次の文章が彫られています
びいどろと云う色硝子で鯛や花を打出してあるおはじきが好きになったし 南京玉が好きになった またそれを嘗めて見るのが私にとって何ともいへない享楽だったのだ あのびいどろの味程幽(かす)かな涼しい味があるものか
梶井基次郎 「檸檬(れもん)」より
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by:ハナ |
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西区靭本町1-18-12
大塩平八郎中斎(1793〜1837)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父として慕われた。
天保8年(1837)2月29日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士、農民等を率いて決起した。
乱後、大塩平八郎、格之助父子は、この地に隣接した靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏した。五郎兵衛は、大塩宅に出入りしていた縁で
かくまったのだが、女中が家族の人数より飯の数が多いのを不審に思い、実家でその話をしたそれが大坂城代の耳に入り、同年3月27日幕史の包囲のうちに自焼して果てた。
民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され全国にその挙を伝えた。
大塩の行動は、新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は、今もなお大阪市民に語り継がれている。
決起160年(1997年)に当たり、全国の篤志を仰いで、ここに建碑されました。
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by:ハナ |
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西区江之子島1−8
江戸時代、この辺りは、漁船の便が良く、『ザコバの朝市』で有名な魚市があった。
『堂島米市場』 『天満青物市場』 と並び、大阪三大市場と呼ばれた。 |
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by:万ちゃん |
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西区江之子島1-9-15
マツダファミリーハイツ阿波座1F前
明治22年4月、市制・町村制により大阪市が成立したが、同時に施行された市制特例により、
市長は府知事が兼務し、市役所は府庁内に置かれた。同31年9月、市制特例の廃止により、
大阪市は独立庁舎の必要にせまられ、翌32年12月、府庁の北側、木津川東詰に市役所を移転し、同45年5月堂島庁舎に移転するまで存続した。 |
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by:monchan |
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西区江之子島1−7(靭防潮用具前)
京町堀川は、元和3年(1617)伏見京町から移住してきた町民らによって開削されたもので、伏見堀川に流入していた。
昭和30年6月、大阪府の防潮堤工事などのため埋め立てられた。
「京町堀川跡」の碑は、昭和34年1月 大阪府が建立したものである。 |
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by:monchan |
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西区江ノ子島1丁目(旧大阪府庁) (旧大阪工業奨励館前)
(天神祭)‐天満より木津川を下り旧大阪府庁跡前の岸壁を上陸し、お旅所の茨木神社へ直行、この木津川で川の中で梯子が立てられ、とび職
の演技が盛大に行われた。(昭和12年頃)まで
現在は家が建てられ、面影が殆どありません。
天神祭は日本三大祭りのひとつで、見物客もたくさんで、いっぱいの人出、見物も大変だった。
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by:オデコ |
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西区江之子島2−1
明治4年7月の廃藩置県、同年11月の地方府県大改革により、大阪府の管地は7郡となった。当時の府庁は東横堀にあったが、
翌5年、大阪府は官民共同の費用をもって江之子島に新庁舎を建てることにし、ただちに着工した。
新庁舎は明治7年7月はじめに完成し、府民は「江之子政府」と呼んだ。大正15年11月、府庁は東区の現庁舎に移転したが、
その間半世紀にわたった大阪府政はこの庁舎を中心に推進された。 |
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by:monchan
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西区江之子島2−1
阿波堀川は阿波座堀川とも呼ばれ、西区にあった堀川(運河)の中ではもっとも古く、慶長5年(1600)に開削され、西横堀川から分流して西に流れ、百間堀川に流入していた。
昭和31年9月、大阪府の防潮工事などのため全部埋め立てられた。
「阿波堀川跡」の碑は、昭和34年1月大阪府が建立したものである。 |
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by:monchan |